奄美市歴史民俗資料館

施設の概要

笠利町時代の昭和57年9月に開館した「奄美市歴史民俗資料館」は、奄美群島に二番目に古い展示施設です。

サンゴ礁が発達した笠利町の東海岸は、多数の先史時代遺跡が集中的に分布する奄美群島屈指の地域です。奄美群島が日本復帰した直後の昭和29年(1954)に行われた宇宿貝塚の発掘調査を始まりとして、旧石器時代から中世まで各時期における重要遺跡の発掘調査が実施されてきました。

そうした笠利町における約40年間にわたる発掘調査資料が保管、展示されている施設が、この「奄美市歴史民俗資料館」なのです。

長年にわたり奄美群島の発掘調査を牽引なされたのは、奄美群島初の「学芸員」である考古学を専門分野とされていた中山清美さんでした。

資料館建設をはじめ、黎明期の文化財保護行政にご尽力なされた旧笠利町役場の中場徳義さんが、昭和40年代から公民館で収集保管してきた民具類も、多数保管、展示されています。

そうした歴史ある「奄美市歴史民俗資料館」で、充実した考古資料をみながら「遺跡・遺物でたどる30,000年の歴史」に、昭和40年代の笠利町の暮らしに、ふれてみませんか。

考古資料展示室

奄美市笠利町には、約100箇所の遺跡があります。奄美群島で最も多数の遺跡が分布している地域です。

その人類活動の始まりは、約30,000年前にさかのぼり、日本列島における人類起源の謎を解明する上でも注目されています。笠利町で行われてきた考古学的調査は、断続的ではありますが、80年以上にわたり続けられてきていて、当館には、そうした学史的な資料をはじめとする膨大な発掘調査資料とその記録が保管されています。

この展示室では、奄美群島を代表する重要遺跡から出土した土器・石器などの考古資料を年代順に展示しています。

亜熱帯の島の自然環境に適応しながら暮らしてきた人びとの歴史を、遺跡・遺物からぜひご覧いただきたいと思います。

考古資料展示室紹介

旧石器時代

奄美群島では、奄美大島と徳之島から約30,000年前の旧石器時代遺跡がいくつか確認されています。

当時は氷河期に当たり、海水面は現在より約140mも低下していました。そのため、種子島・屋久島等の大隅諸島は、九州島に繋がる陸地の一部だったのです。しかし、種子島・屋久島以南の南西諸島は、既に海で分断されていましたので、船を使わなければ移動できなかったのです。

そうした意味で、奄美群島の旧石器文化はどこから伝播したものなのか、その経路が注目されているのです。奄美群島の旧石器時代人はどこからきたのでしょうね。

縄文時代

奄美群島では、氷河期が終わり、気候が最も温暖化した縄文時代前期以降(約7,000年前)から、遺跡が確認されるようになります。

令和2年(2020)、徳之島の下原洞穴遺跡(天城町)から約13,000~14,000年前頃に位置づけられる可能性がある縄文時代初期の「隆帯文土器」に類似した土器が発見されました。これが確実となると、縄文時代開始期は、一気に草創期までさかのぼり、その様相の一端が明らかになるかもしれません。

奄美大島では、奄美市笠利町の東海岸を中心に、多数の縄文時代遺跡が分布しています。これらの遺跡のほとんどはいわゆる貝塚遺跡で、地域色が強い縄文土器や石器に加えて、本土地域にはみられない個性的で装飾豊かな貝製品、骨製品などが出土しています。

弥生時代並行期

弥生文化は、北は青森県から南は鹿児島県の種子島・屋久島まで波及していました。しかし、その南側の南西諸島の島々では、稲作農耕と金属器を特徴とする弥生文化は受容されていませんでした。奄美群島や沖縄県の島々では、依然として漁労採集を中心とする生活が続いていたのです。それは、亜熱帯の自然環境に支えられた豊かな魚介類やシイの実などの植物食があったために、稲作農耕に移行する必要がなかったとも考えられます。

この時代の遺跡は、発掘調査事例が少なく、具体的様子は明らかになっていません。

古墳時代並行期

古墳時代の特徴である古墳を造る墓制は、種子島・屋久島を含む南西諸島の島々には波及しませんでした。列島北縁も、秋田県・青森県・北海道には古墳がありません。

古墳時代並行期から、南西諸島は個性が強い地域的な歴史を顕在化させていきます。

九州の弥生社会・古墳社会では、政治的階層の装身具として、ゴボウラ・イモガイ等の南海産大型貝類がとても珍重されていました。サンゴ礁が発達する南海に位置する奄美群島・沖縄諸島では、そうした大型貝類の供給地として、九州と遠隔地交易が行われていたのです。

古代並行期

7世紀の律令国家誕生後について、文献史学側では、南西諸島にも役人が派遣され、中央政府に代表を派遣したり、特産品を献上したりする社会が営まれていたと理解されてきました。

ところが、考古学側では、ほとんど貝塚遺跡が中心となるため、漁労採集社会が依然として営まれていたと理解されてきたのです。

そうした見解の相違については、昭和59年(1984)に、大宰府跡から奄美大島などの島名を記載した木簡が発見されたことを契機に再検討が始まり、土盛マツノト遺跡(奄美市笠利町)、小湊フワガネク遺跡(奄美市名瀬)などの「ヤコウガイ大量出土遺跡」の発掘調査が進められた結果、交易活動により階層社会が形成されていた可能性が高まりつつあります。

中世

既に6・7世紀には、一部で鉄器の使用も開始されていた奄美群島ですが、依然として漁撈採集を中心とした暮らしが続いていました。

11世紀前後になると、農耕が開始され、食料生産の時代に移行していきます。

その頃、喜界島では、「城久遺跡」という大規模遺跡が高台に出現します。この遺跡は、土師器・須恵器。陶磁器・滑石製石鍋などの搬入容器類が中心となることから、九州から移住してきた人びとにより営まれた遺跡ではないかと考えられているのです。

同時期には、徳之島南部の山地に陶器の大規模窯跡群である「カムィヤキ陶器窯跡」が出現します。当該遺跡は、11世紀から13世紀を中心に、14世紀前半頃まで操業されていましたが、南西諸島を対象とした商品(焼物)生産を目的として営まれていました。

「城久遺跡」や「カムィヤキ陶器窯跡」が営まれた時期は、日宋貿易を契機として、九州西海岸と連動した交易活動が活発化した時期でもあります。「日本最北の亜熱帯」である奄美群島は、本土地域に近い南方物産を産出する地域として、交易活動の舞台として機能していたのです。

その後、赤木名城跡(奄美市笠利町)をはじめとする城郭遺跡が多数築城されるようになります。

民俗資料展示室の概要

旧笠利町教育委員会では、中場徳義さんを中心に、昭和40年代から文化財の資料収集を丹念に進めていました。日本復帰後の奄美大島で、学術調査が本格的に進められていく過程で、調査来島する先生方をサポートしていたのも、中場徳義さんでした。

戦前に使われていた古民具などの貴重な資料を収集して、公民館で保管していましたが、それらの資料が当館に移管されて保存、展示されています。

これらの民具類からは、低平な台地が広がり、耕地に恵まれ、海岸にサンゴ礁が発達している笠利町の地理的環境に適応した暮らしの様子がうかがわれます。

現在では、ほとんど見ることができない生活用具類も、多数所蔵、展示されているのが特徴です。

民俗資料展示室の紹介

準備中です。

施設情報

奄美市歴史民俗資料館ご利用案内

所在地〒894-0624
鹿児島県奄美市笠利町大字須野670
TEL0997-63-9531
開館時間午前9時~午後5時
(入館は午後4時30分まで)
休館日月曜日・祝祭日の翌日・12月28日~1月4日
入館料一般200円/大学・高校生100円/小・中学生50円
宇宿貝塚との共通券 一般のみ310円
アクセス奄美空港より車で10分/徒歩60分
名瀬市街地より車でおよそ60分
「あやまる岬」停留所より徒歩3分
宇宿貝塚史跡公園より車で5分/徒歩30分